ミッドライフ・クライシスからの本質探訪録

メディカルヒーリング練習記改め

貧乏は忌むべきものであるかもしれないが、与えられている体験ならばそこに意味がある。。

多くの人の願いの一つに「金運招福」があるかと思います。私も以前「金運神社ツアー」と称して仲間内で新屋山神社に行って御祈祷を受けたりしてきました。また毎年、八幡宮に行って一陽来復のお守りを頂いたりしています。

率直にお話しましょう。。現在サラリーマンではありますが、大学と高校の二人の子供を抱えている上に”ひとり親”なので、”かなり厳しい家計状況”です。しかし地の利もあって(父方が農家のため頂きものが多い)飢えることはありません。むしろどうやっておすそ分けしようかというくらいです(^^)

昔であれば、十分に食べることができるということだけで”豊かな状態”なのですから、これ以上を望むのは神様の目からすると少し欲深に映るのかも知れません。。

子供も「高校を出たら働きに出ればよいでしょう。。」というご意見もあるでしょうが、それも重々承知の上で「かならず世のため人のため、人類の魂の進化に寄与する働きを将来しますので子供達を後押しさせていただけますように。。」という思いで、お参りさせて頂いているので、不思議と今の今まで生かされているのかも知れません。。

感情は味わいつくさないと、後に残って色々な副作用が生じるのと同様に、貧乏体験も味わいつくすことによって体験として生きるのかも知れません。

貧乏はネタになるのです。

私が高校生の頃に扇谷正造さん編集の各界著名人の若い人へのメッセージを読んだのですが、さすがに昔の人達の話だけあって”赤貧洗うが如し”の体験談が多かったです。

誰の言葉か忘れましたが「貧乏しよう。辛抱しよう。二つの棒にしがみついて、さぁ歩きたまえ!」という若者への激励のメッセージは心打つものがありました。

貧乏に限らず、今与えられている試練の時は実は後の人生を振り返った時に、もっとも甘美な期間であったと思い起こす事が多いのではないかと思います。

試練の時こそ、目に見えない神様や存在達が全力で見守ってくださっていると信じて、天はあえて自らの眼鏡に適う人物にこそ試練を与えると捉え、「私は大丈夫でございますので必要な後押しをお願いします」と歩みだす自身でありたいと思うこの頃です。